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8月15日に思うこと

父が美術学校を出てから横濱シネマ商会というアニメーションの会社に就職したのは昭和16年。

父はその年の12月に召集されて終戦の年に復員した。

就職してわずか8カ月で召集されて、戦争のために志を捨てざるを得なかった。

日本のディスニーになるという意気込みで

「こがね丸」という、長編アニメーション映画を作るところだったが、

父が召集されたあとも軍からの依頼の仕事が増えて、

子供のための漫画映画を作るのは当然後回しになり、

ついに完成することは無かった。

もし、戦争が無くて「こがね丸」が完成していたら、

その後父はアニメの世界にずっといたかもしれない。

けれども戦争が無くて、ずっと軍国主義が続いていたら、

朝ドラのなっちゃん達みたいに自由に制作出来たかわからないし、

その後のジブリ映画みたいのものも誕生しなかったかもしれない。

また、復員した父と、疎開した母が郷里の熊本で出会っていないかもしれない。

それならもちろん私は存在していない。

昭和17年の文化映画という雑誌に、

横浜シネマ商会の製作中のアニメーション映画『こがね丸』の広告が出ていた
文化映画の記事には「大東亜戦争完遂と新文化映画会社への希望」とか、

他の広告には「大東亜戦争撃滅戦記」なと勇ましいものばかり。

その時代にこんなに暖かい映画が完成するはずもなかった。
この広告の中、作画者の名前の左端に父の名がある。

ちなみに隣の最上忠敬は、のちの「しょうぼうじどうしやじぷた」の作者、

山本忠敬さんで、父と美校の同期、新卒で一緒にこの会社に就職したのだ。

入社して一年も経たないうちに招集された父たちはさぞ無念であっただろう。
 


 

私たち世代(昭和20年代生まれ)のほとんどが、

戦争から生還した父親と、空襲にあっても無事生き延びた母親から生まれたと思う。
戦死した100万の若い兵士たちはほとんどが子孫を残すことができなかった。
ということに今更ながら気づいて、

この世に生まれ、生きていることが稀有なことだとつくづく思う。
そして戦後74年間も、日本人が誰も戦争で死なず殺さずにいられたのは、やはり9条があるから。
多くの犠牲があって必然的に生まれた戦争放棄というたからものを

簡単に手放してはならないと強く思う。

2019.08.16 Friday|-|by アトリエ木里


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