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3.11に思うこと、宗教のこと。

昨日の朝日新聞の天声人語に書いてあったこと。
禅寺住職の金田諦應さんは傾聴喫茶『カフェ・デ・モンク』という名の活動を続けている。被災した方々の話に耳を傾けるため、仮設住宅などを訪れて被災者の語り出すのを待ち、耳を傾けている。(モンクは英語で僧侶のこと、しかし日本語では文句という意味もある)
津波で3人の家族を亡くした方は、灯籠を流した時、最初はバラバラに漂っていた3つの灯籠が次第にひとつにかたまって流れて行ったのをみて、あちらの世界でも3人は一緒なんだな、と思い、少し落ち着いた、と住職に語ったという。人は悲しい記憶をそれぞれのやり方で背負って行く。答えにたどり着けるよう、話し易い雰囲気を作って待つのだという。
待つというのは容易なことではない、と思う。しかし性急に求めても人は心を開かない。傷ついた人ならなおさらだ。

 

ちょうど最近読み終わった本、サトクリフの『ともしびをかかげて』の中にも、修道士がその役割をする。
ローマ帝国が衰退し、属州ブリテンから引き上げるとき、ローマ軍の兵士だった主人公が、自分のいる場所はブリテンだと思って留まった。その直後、サクソン人に襲われて父を殺され、妹がさらわれ、自分も奴隷にされると言う、最も理不尽な状況に於かれた主人公アクエラは、隙を見て逃亡し、疲れ切ってニンニアス修道士と出会う。
修道士は奴隷の首輪をヤスリで切って外し、温かい食べ物と寝る場所を与える。そして決して質問せず、アクエラが語り始めるのを待つ。彼は語るつもりもないのに、次第に自分に起きたことを語り始める。修道士は、悲しみ怒り、復習に燃えた主人公の首輪と同じように心の頚木も外し、彼が進むべき道、従うべき人を示してくれる。
物語の中で3回遭遇するニンニアス修道士の正しさ、強さ、暖かさ、確かさが、荒々しい戦いの物語を読み進めるのに役立った。

 

ひとつはたった8年前に起こった震災のこと、もうひとつは歴史小説の中のこと。一緒に語るのは如何なものかと思うけど、ほんものの宗教家のすることは同じだと思った。
宗教家のもつそういう力が必要なときがある。人は語ることによって見えてくるものがあるからだ。
15897人の亡くなった方々、2533人の行方不明の方々、震災関連死の3701人の方々。
その家族の方々のことをいつも心の中に。
そして、51778人のいまだ避難を余儀なくされている方々に寄り添うことを忘れない。

2019.03.12 Tuesday|-|by アトリエ木里


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